第15話 Cherry(9)
 
 人がたくさんいる待合ロビーを通るのを避けて、女性科の南口から遊歩道に出た。
 昼下がりの日差しが目に飛び込んできて、思わず目を細めた。風が僕の体を撫でる。湿った草のにおいがした。まだ風は少し冷たいけれど、母さんが掛けてくれたひざ掛けのおかげで寒いほどじゃない。姉さんと一緒にゆっくりと遊歩道を行く。入院患者らしいパジャマ姿の人が何人か散歩している。木漏れ日が僕の体に光の模様を作る。風がやさしく頬や肩をなで、胸元のレースを揺らす。気持ちいいな、いままで外の世界をこんなに感じたことはなかった。タイルで舗装された小道に、くたびれたピンク色の花びらが落ちている。上を見上げた。ああ、桜並木だったんだ。あと一週間早ければちょうど満開だったかもしれない。病室からピンク色の桜が良く見えただろうな。見られなかったのが少し残念。
 正面玄関口が近づいてきた。
「お母さん車どこに停めたのかしら」
 姉さんの声に首を起こして前を見る。ロータリーになっている広い正面玄関口に車が列を作っている。その先頭に、どこかで見たことのある黄色い車が見えてきた。
 母さんの車だ。母さんはドアを開けっ放しにして車から出て、エントランスのほうを落ち着かない様子できょろきょろと覗き込んでいる。
「ちょっと、お母さん。何してるのよ。そこ駐車禁止よ」
 姉さんがあたりを気にしながら行った。
「まあ、なんだい。そっちから来ると思わなかったわ。さあ早くお乗り」 
 母さんの大きな声で僕に注目が集まった。僕が渋滞の原因だってわかってしまうじゃないか。僕は抗議の視線から自力で逃げ出すことも出来ずに、ただ脱力するだけだった。
 姉さんが通りがかる人たちに愛想笑いしながら、車椅子を母さんの車のそばに寄せてくれた。
 母さんの車は助手席が回転してシートがドア側に向くようになっている。初めて知った。車椅子と車のシートの間は1メートルもない。でも
その1メートルが遠く感じる。腹筋に力を入れるとまた差し込むような痛みが襲ってくると思うと、体を起こすのが怖い。額に汗がにじんできた。
「大丈夫? 手を貸すわよ、悠里」
 見かねた姉さんがかがみこんで耳元で言った。 
「年寄りだったら担いで突っ込んじまえば良いけどさ、こういうのは自分で加減しながらじゃないとダメさ。落ち着いてゆっくりやればいいさ」
 後ろから母さんが言った。そのとおりだと思った。無理に起こされたら傷が開いちゃうかもしれない。
 車列の中の一台がクラクションを鳴らした。ドキッとして体がしびれたようになった。
「今鳴らしたのは誰だ! こちらのご婦人は妊娠されてらっしゃるんだ。控えろっ」
 母さんの車の二台後ろに停まっていたタクシーから帽子を被った運転手が飛び出て車列をにらみつけた。タクシーの運転手は帽子を取って僕のほうを向いて深々と頭を下げた。どこかで見覚えがある。この運転手は以前、ここへ来るときに呼んだタクシーの人だ。ありがたいような、迷惑なような……。とにかく一刻も早くここを離れたい。
 体に残っている力を振り絞って体を起こし、力の入らない足でバランスを取りながら、ようやく母さんの車のシートに腰掛けることが出来た。
「さて、あとは任せときな」
 母さんは僕が乗ったシートを前向きに回転させると、慣れた手つきで車椅子を折りたたんで後部座席とハッチのスキマに入れた。
 三人で車に乗り込んでドアを閉めると、ようやく落ち着くことが出来た。
「さて出発進行」
 母さんが車を発進させた。(つづく)