チェンジリング

『チェンジリング』第16話

2013年01月15日00:24
第16話 Cherry(10)

「さて、あとは任せときな」
 母さんは僕が乗ったシートを前向きに回転させると、慣れた手つきで車椅子を折りたたんで後部座席とハッチのスキマに入れた。
 三人で車に乗り込んでドアを閉めると、ようやく落ち着くことが出来た。
「さて出発進行」
 母さんが車を発進させた。
 これでやっと家に帰れる。力を抜いてもたれかかると、車のシートの角度がちょうどよく受け止めてくれる。ベッドで寝ているのより楽だ。
 子供の頃、風邪を引いて熱を出したときに車で小児科に連れて行かれたのを思い出す。隣で姉さんが手を握ってくれて、それだけで気分が少しよくなったっけ。あのころ僕は家族の中心に居た気がする。
 ぼんやりと上を見ていると、フロントウインドーの端っこに花びらが一枚へばりついているのが見えた。
「桜の花……?」
「ああ、この辺の街路樹は桜だね。でも、もう葉桜だね」
 母さんが僕の言葉を誤解して、外を見回して言った。
「もう一週間早ければ、ちょうど病室から満開の桜が見られたのにね」
 姉さんが僕の心を読んだように言った。ピンク一色の病室を思い出した。なんだかもう懐かしく感じる。
「うん、見たかったな、桜」 
「何だい、お前は。この間連れて行ってやるっていったら興味なさそうだったじゃないか」
 ハンドルを握る母さんがちらっと僕を見て言った。
「そういう気分じゃなかっただけ。それにもう時期が遅かったでしょ」
「まったくお前はいつもそうだよ。こっちがしてやるって言うと後で後でって、結局後で泣くんだから」
 母さんのいつもの嫌味が始まった。やれやれ、ここ数日の特別扱いもここまでか。
「もう、やめてよお母さん。悠里はいつも家族のために遠慮してるのよ」
「家族に何遠慮するって言うのよ。はっきり言えばいいじゃないか」
 信号待ちの右折ラインから母さんが強引にハンドルを切って直進ラインに出た。
「母さんそっちは家と逆方向じゃないの。どこ行くんだよ」
「どこっていいところだよ。しばらく寝てな」
 信号が変わって、母さんがアクセルを踏み込んだ。僕はおとなしく目を閉じていることにした。
 ☆  ☆  ☆
「悠里、悠里、起きて」
 誰かが僕のほっぺたをつついている。ひんやりする空気が体をなぞって、浅い眠りの中から引っ張り出された。
「もう家に着いたの……?」
 何度も寝たりおきたりして時間の感覚がなくなっている。
 うっすらと目をあけると、フロントウインドーはピンク色に埋まっている。次々と舞い落ちる桜の花びら。風に乗って一枚、花びらが手の甲に落ちた。
 僕は、夢でも見ているのか。指でつまんで拾い上げるとしっとりと冷たい花びら。
「ここどこ?」
「いいところよ」
 姉さんの声を視線で追うと、窓の外は満開の桜だった。古いお城のような塀を越えて道路のほうまで柳の木みたいに垂れ下がって、まるで桜のトンネルだ。
 僕は誘い出されるようにしてドアを開けて、ふらふらと表に出た。不思議と痛みは感じなかった。
「大丈夫? 無理しないでこれにのって」
 姉さんが手に持っていた折り畳みの車椅子を広げた。
 姉さんが押してくれる車椅子で桜のトンネルの中をくぐり、少し傾斜の付いた道を登っていくと、やがて桜の花に包まれた真っ赤な鳥居が見えた。
『女体神社』
「ここなら山だからまだ散ってないと思ったんだよ」 
 後ろから母さんの声がした。女体山と女体神社は、別に観光スポットじゃないけど、地元じゃ誰でも知ってる。男子は小学生のころに地図で見つけて女のヌードを落書きするものだ。
「せっかくだから花見のついでに御参りしていこうか」
 鳥居を抜けると石の階段が続いている。母さんがさっさと歩いていく。僕は脇の坂道を通るしかない。
「大変だったら僕はここまででいいよ」
「大丈夫。遠慮しないで。行きましょう」(つづく)

※作中の地名は架空のものです。実在の女体山および女体神社とは関係ありません。

『チェンジリング』第16話

2012年05月03日09:48
 第15話 Cherry(9)
 
 人がたくさんいる待合ロビーを通るのを避けて、女性科の南口から遊歩道に出た。
 昼下がりの日差しが目に飛び込んできて、思わず目を細めた。風が僕の体を撫でる。湿った草のにおいがした。まだ風は少し冷たいけれど、母さんが掛けてくれたひざ掛けのおかげで寒いほどじゃない。姉さんと一緒にゆっくりと遊歩道を行く。入院患者らしいパジャマ姿の人が何人か散歩している。木漏れ日が僕の体に光の模様を作る。風がやさしく頬や肩をなで、胸元のレースを揺らす。気持ちいいな、いままで外の世界をこんなに感じたことはなかった。タイルで舗装された小道に、くたびれたピンク色の花びらが落ちている。上を見上げた。ああ、桜並木だったんだ。あと一週間早ければちょうど満開だったかもしれない。病室からピンク色の桜が良く見えただろうな。見られなかったのが少し残念。
 正面玄関口が近づいてきた。
「お母さん車どこに停めたのかしら」
 姉さんの声に首を起こして前を見る。ロータリーになっている広い正面玄関口に車が列を作っている。その先頭に、どこかで見たことのある黄色い車が見えてきた。
 母さんの車だ。母さんはドアを開けっ放しにして車から出て、エントランスのほうを落ち着かない様子できょろきょろと覗き込んでいる。
「ちょっと、お母さん。何してるのよ。そこ駐車禁止よ」
 姉さんがあたりを気にしながら行った。
「まあ、なんだい。そっちから来ると思わなかったわ。さあ早くお乗り」 
 母さんの大きな声で僕に注目が集まった。僕が渋滞の原因だってわかってしまうじゃないか。僕は抗議の視線から自力で逃げ出すことも出来ずに、ただ脱力するだけだった。
 姉さんが通りがかる人たちに愛想笑いしながら、車椅子を母さんの車のそばに寄せてくれた。
 母さんの車は助手席が回転してシートがドア側に向くようになっている。初めて知った。車椅子と車のシートの間は1メートルもない。でも
その1メートルが遠く感じる。腹筋に力を入れるとまた差し込むような痛みが襲ってくると思うと、体を起こすのが怖い。額に汗がにじんできた。
「大丈夫? 手を貸すわよ、悠里」
 見かねた姉さんがかがみこんで耳元で言った。 
「年寄りだったら担いで突っ込んじまえば良いけどさ、こういうのは自分で加減しながらじゃないとダメさ。落ち着いてゆっくりやればいいさ」
 後ろから母さんが言った。そのとおりだと思った。無理に起こされたら傷が開いちゃうかもしれない。
 車列の中の一台がクラクションを鳴らした。ドキッとして体がしびれたようになった。
「今鳴らしたのは誰だ! こちらのご婦人は妊娠されてらっしゃるんだ。控えろっ」
 母さんの車の二台後ろに停まっていたタクシーから帽子を被った運転手が飛び出て車列をにらみつけた。タクシーの運転手は帽子を取って僕のほうを向いて深々と頭を下げた。どこかで見覚えがある。この運転手は以前、ここへ来るときに呼んだタクシーの人だ。ありがたいような、迷惑なような……。とにかく一刻も早くここを離れたい。
 体に残っている力を振り絞って体を起こし、力の入らない足でバランスを取りながら、ようやく母さんの車のシートに腰掛けることが出来た。
「さて、あとは任せときな」
 母さんは僕が乗ったシートを前向きに回転させると、慣れた手つきで車椅子を折りたたんで後部座席とハッチのスキマに入れた。
 三人で車に乗り込んでドアを閉めると、ようやく落ち着くことが出来た。
「さて出発進行」
 母さんが車を発進させた。(つづく)

『チェンジリング』第15話(8)

2012年01月29日23:33
第15話 Cherry(8)

 浅い眠りから目を覚ました僕は、赤木先生にいくつか問診を受けた後、いよいよ帰宅ということになった。
 眠っている間に僕が厄介になった病室はすっかりと片付けられていて、あとは僕の体ひとつだ。でも、その体が重い。お腹に少しでも力が入るとするどい痛みが走る。ベッドの端に腰掛けたまま立ち上がる気力が沸いてこない。自分の足で歩いて車まで歩いていけるだろうか。ああ、もう一度布団を被ってこのまま寝てしまいたい。
「悠里、本当に無理しなくていいのよ。不安だったらもう二、三日くらい泊まっていきましょう」
 姉さんが心配そうに僕の手に手のひらを重ねた。僕よりも冷たい手のひらの感触。入院のお金のことを思い出して首を振った。
「大丈夫だよ、ちょっと手を貸して」
 姉さんの手を引っ張るようにしてゆっくりと立ち上がった。
「さあ車用意したからね」
 母さんが廊下から車椅子を転がしてきた。
「母さん、そんなの持ってこなくていいよ。返してきて」
「何言ってるんだね。これはあたしのだよ。いつも車に積んであるんだから。ほらさっさとお乗り」
 言葉とは裏腹に、母さんは車椅子を僕のそばに寄せて、僕がよろよろと腰掛けるのをじっと待ってくれた。
 奥が腰掛けると、母さんがバッグからひざ掛けを取り出してかけてくれた。
「生足じゃはずかしいだろう」
 母さんに言われて僕は今ワンピースなんか着ているのを思い出してしまった。黙っててくれれば忘れていられたのに。でも、だんだんといつものペースに戻ってきたような気がする。
「じゃあ、忘れ物はないね」
 母さんが立ち上がって僕の後ろに回ろうとした。
「待って。私が押していくからわ」
 姉さんが母さんを制して僕の後ろに回った。
「いいわよ、母さんのほうが慣れてるから」
「私が押したいの。お母さんは運転お願い」
 姉さんに押されて母さんは「そうかい、じゃあ先に待ってるよ」と言ってバッグを担いですたすたと歩いていった。
「じゃあ、いきましょうか悠里」 
 姉さんに車椅子を押してもらって病院の廊下を進んで行く。すれ違う人が僕を見ている気がして恥ずかしい。姉さんがナースセンターの看護婦さんに挨拶した。看護婦さんのお見送りに僕は首だけで挨拶した。顔を知ってる看護婦さんがロビーまでついてきてくれて、僕のためにエレベーターを呼んでくれた。姉さんとエレベーターに乗り込んだ。
「お大事に、葛城さん」
 看護婦さんがにっこりと笑顔で見送ってくれた。
 ドアが閉まった。あの看護婦さん、最後まで名前を間違っていたな。
「昔はこうやって悠里に押してもらったわよね、車椅子」
 姉さんが耳元に顔を近づけて小声で言った。
「立場が逆になっちゃったね」
 笑おうとしたけど、鼻から空気が抜けただけだった。
「ギヴ・アンド・テイクね。お返しできてうれしいわ。」
 あの時は姉さんをおもちゃの車みたいに動かすのが面白くてやってただけなんだよ。姉さんを好きにできるのがうれしかったんだ。僕は姉さんが思ってるようないい弟じゃなかったから。でも、これからは……。
 何も言えないままドアが開いた。(つづく)

『チェンジリング』第15話(7)

2011年12月23日21:30
 第15話 Cherry(7)

「か、母さん。子供を生むのは辛い? 苦しい? お腹に子供がいるのってどんな気持ちになるの?」
 姉さんとのやり取りに割り込むようにして切り出した。
「どっちもだよ。でもね、苦しいばっかりだったら香里の後にお前なんか産んでないよ」
 母さんは笑いをこらえるようにして言った。
「ま、その時が来たら助けてあげるから気にしなさんな。なにしろプロなんだからね。今はゆっくり休むといいさ」
「葛城さーん、お昼食べられそうですかあ?」
 僕と同い年くらいの看護婦さんが銀色のカートを押して病室にやってきた。まだ名前を間違っている。
 どう? と姉さんが僕に訊いた。
「多分、大丈夫。食べられたら元気でそうだし」
 食欲はまったくなかったけれど、無理してそう答えた。
「そうですか、よかった。この病院は患者さんに出すお料理にも力入れてるんですよー」
 看護婦さんはうれしそうにソファの前のテーブルにお盆を置いて配膳を始めた。
 そんなにがっつりとした食事が出ても困ると思っていたら、水っぽくて黄色いおかゆとマッシュポテト、それからプリンとりんごジュースだった。小さな器にちょっとずつ盛られている。
 なんだか離乳食みたいだな。拍子抜けしたけど、いざ目の前に並べられると、胃を内側から押し上げるような吐き気が襲ってきた。きっとお腹の空き過ぎだろう。姉さんに体を起こしてもらうと、お盆からりんごジュースを手に取った。握力が全然なくて、指の湿り気でコップを引っ掛けるようにして口まで運んだ。
 りんごジュースを一口飲み、プリンを半分食べることが出来た。それから黄色っぽいお粥を一口食べた。卵の味がした。
「がんばって。ゆっくりでいいのよ」
 姉さんが言い聞かせるように言った。なんだか本当に赤ん坊に戻った様な気分だ。三人に見守られながらゆっくりと時間をかけてかみ締めるようにして飲み下す。たしかにおかゆにしては美味しいかもしれない。
 食事をとるとなんだかか体力がついたような気持ちになって、自信がわいてきた。同時に眠くなってきた。姉さんと母さんの手を借りてベッドに戻った。ベッドには窓からレースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでぽかぽかする。
「少しお休み。三時過ぎになったら車を出すからね」
 母さんが指で僕の前髪を優しく撫でて言った。
「うん、僕は大丈夫だから、二人も何か食べて休んでよ……」
 余裕の出てきた僕は、そう言いながら心地よい眠りに落ちていった。(つづく)

 おまけ。
 尺の都合で削除したお母さんの話です。
 * * *
 母さんの思い出話は父さんとの結婚の話から始まった。姉さんが聞き役になって母さんがたどたどしく話すのを、僕はじっと聞いていた。
 話は僕が生まれる前のことに入った。
「香里の時は気がついたらお腹に居たって感じだったけどね、お前のときは香里が弟か妹が欲しいって言うもんだからお母さん頑張ったのよ、女も三十過ぎると難しくなるのさ、だから妊娠してるってお医者さんに言われたときは嬉しかったのよ、宝くじに当たったくらい。男の子だって言ったらお父さんちょっと嬉しそうだったわ。あんたは香里のときと反対で、できるまでが大変であとはするっといってくれたのよ、今は手がかかって仕方ないけどね。それでお父さんったら全部片がついてからようやく香里と一緒にやってきたんだよ。覚えてるかい、お寺がやってる保育園の隣の産婦人科さ。今頃やってきて何言うのかと思ったら、いきなりこの病院はダメだって言い出してね。何でよって訊いたら隣にお寺と墓場があって縁起でもないって言うの。お寺に保育園もあって便利よねって言ったら、手近で手を打つとろくなことがない、男はスケールが大きくないとダメだって言い出して、それでお前の名前は悠久の悠で悠里になったのよ。母さんそれじゃ女の子みたいじゃないのって言ったのよ、でもお父さんが悠久のキュウじゃナスビの親戚みたいじゃないかって言うの。ナスビがキュウリの親戚だったら親はなんだって言ったら、土手のかぼちゃだろって言うもんだから頭きちゃって生まれて初日でもう大喧嘩さ。でも、それで元気出てきたのよ、何があってもこの子は私が守らなきゃってね」
 母さんのトークは脱線を繰り返してまだ続いている。なんてくだらなくて、どうでもよくて、温かいんだ。
「もう、お母さんたらその話は何度も聞いたわ」
 姉さんがおかしそうに笑いながら言った。僕はこういう話からいつも除外されていた。いや、自分から避けていた。母さんたちが楽しそうに話しているのを遠くで聞いていて、家族の中で一人ぼっちのように感じていた。実際、姉さんが病気で倒れてからはいつも一人だった。いつも一人でお留守番できて偉いわね、さすが男の子ね、それが子供の頃僕が褒められた唯一のことだ。いつしか僕は家族から離れて一人で居ることが偉いことだと思っていた。それが男の子なんだと。
 母さんの話なんていままでこうしてちゃんと聞いたことなんてなかった。これまでだったらこんなこと恥ずかしくて聞けなかったし、興味もなかった。でも今は違う。

 * * *

『チェンジリング』第16話(6)

2011年11月20日22:44
 第15話 Cherry(6)

 イメージの中で女性になった僕の中に孝之さんの精液が発射された。僕の中に白い精液がしみこんでいく。思わず体が動きそうになった。
 僕は自分の体が自分のものじゃなくなったような気がして、思わず両手で自分の体を抱くようにした。胸がドキドキしている。左胸にそっと手を当てた。胸の鼓動ではなく、胸にじんわりとした鈍い痛みを感じてぎょっとした。
 落ち着いて探ると、痛みの発生源は心臓や肺じゃなく、もっと皮膚の表面に近いところだった。筋肉痛か打ち身のような痛みだ。浣腸の後遺症でお尻が筋肉痛のように張っているし、知らないうちに胸の筋肉にも力が入っていたのかな。
 痛みの正体がわかって、少しほっとして顔を上げた。気がつくと姉さんと母さんはゴミや着替えた服をすっかり片付けてしまっていた。病室は初めてここに来た時と同じ状態に戻った。ただひとつ僕を除いては。
 これから僕の体はどうなっていくのかわからない。セックスは何度となくイメージはしてきたけれど、その先にあるはずの『妊婦』として想像する女性像に自分をはめ込むことがどうしても出来ない。母さんは知っているんだろうけど、母と娘ならともかく僕は男だからな。それに、中学生に上がったころからどうにもギクシャクしてうまく行ってないし。
「なんだい、人の顔じっと見て」
 母さんがいつものような意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「お腹でもすいたのかい、それとも腹の具合が悪いのかい」
 僕は知らないうちにお腹に手を当てていた。
「別になんでもないよ」
 母さんと見つめ合っているのが気まずくなって視線をそらした。母さんはまとめた荷物を床に投げ出すと、ずいずいと歩み寄ってきて、僕の隣に腰掛けた。
「ならいいけど、不安なことがあったらすぐ言うんだよ。もうお前だけの体じゃないんだからね」  
 はっとして顔を上げた。口調はいつもの突き放すような言い方だけど、いつになく優しげな表情をしている。
 母さんがそっと僕のお腹に手を置いた。
 さっき頭をよぎった『体が自分のものじゃなくなる』ということが恐いことじゃなくて、なんだかいいことみたいに感じられた。男は生まれて死ぬまでずっと一人だけど、女性は自分の体の中に違う生命を宿すことができるんだ。そして僕はその領域に足を踏み入れた。
「か、母さん、あの……」
「なんだい、痛かったのかい」
 母さんがびくっと手を引っ込めた。
「違うよ。そうじゃなくて、こ……子供を妊娠するってどういうことなのかなって」
 一瞬、母さんが目を丸くして固まった。それからふっと吐息を漏らして言った。
「何だね、急に。そういえばお前にはこういうこと話してなかったかねえ」
 母さんが少し照れたように遠くを見るような目で言った。
「その話、私も聞きたいわ」
 母さんを挟み込むように姉さんがソファに座って来た。
「なんだい香里まで。じゃあ、まずは香里の時から始めようかね」
 母さんの思い出話は父さんとの結婚の話から始まった。姉さんが聞き役になって母さんがたどたどしく話すのを、僕はじっと聞いていた。
 母さんの話なんていままでこうしてちゃんと聞いたことなんてなかった。これまでだったらこんなこと恥ずかしくて聞けなかったし、興味もなかった。でも今は違う。
「か、母さん。子供を生むのは辛い? 苦しい? お腹に子供がいるのってどんな気持ちになるの?」
 姉さんとのやり取りに割り込むようにして切り出した。
「どっちもだよ。でもね、苦しいばっかりだったら香里の後にお前なんか産んでないよ」
 母さんは笑いをこらえるようにして言った。 (つづく)
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